こんにちは。
<お盆 と 騎馬>
昨日は「送り盆」の日でした。 今年、我が家は、新盆です。 墓参りが多くなります。
私が生まれたのは、中野市ですが、我が家の墓は、須坂市にあります。
すぐ近くに臥竜公園、八丁鎧塚古墳があります。坂田神社も近く、父方は騎馬系部族の出でした。
北信濃一帯には 2世紀から高句麗経由で騎馬系部族が入っています。豆満江の河口から佐渡経由で新潟の海岸に漂着するルートです。内陸に入るには、信濃川と関川が使われます。中野市には、小牧、牧の入という馬の牧畜にちなんだ地名があります。 我が家の先祖(父方)は、どうも6世紀初頭の継体天皇のころに入ったのではないか、と私は考えています。
騎馬が入ったルートにのって、日本列島には、5世紀に鉄(鍛造鉄)も入っています。このルートがもっとも活発化した5世紀中ごろから西日本では戦乱が始り、甲冑時代になりました。その西日本の戦乱から逃れた人間を吸収した形で、東日本では5世紀の後半には、さいたま古墳群に見られるように人口が急増しています。 信濃はこのとき戦乱がなかったので継続して、大陸から多くの人士や文物が入ったと思われます。
中野市新野の金鎧山古墳からは、5世紀後半、雄略のころの仏具が出土しています。 これは、通常伝えられる仏教伝来より、半世紀以上、早いものです。 長野県北部にある寺院は基本的に高句麗系の建築様式です。高句麗は朝鮮三カ国の中で仏教の受容が最も早く、その時期は倭国に七枝刀が届いたのと同年の372年でした。当時、倭国は仲哀の時代ですが、そのあとに「退中天皇」とされる応神(ホムダワケ)が即位します。
日本列島の5世紀前半は、仁徳、履中、反正、允行の時代であり、このときの倭国王権は高句麗の政権と一体化していたと私は考えています。このときの高句麗王は広開土王の息子の長寿王です。当時の日本列島には、現在の蒙古高原を通って、キリギスの西側のペルシャ・バクトリア方面から多くの部族と文物が入り込んでいます。
では、当時の日本列島からの輸出品は何か? というと、 これは、絹と、金です。
仲哀時代に初めて倭国に現われたのが弓月国の功満王ですが、400年前後の応神時代には、その息子の融通王が20万人を引き連れて帰化しています。この場合、多くは、朝鮮半島から、九州~瀬戸内を進んで播州を中心にして各地に定着し、養蚕を始めています。赤穂の普門寺には、その時代からの融通王の子孫である秦氏の歩みがいまでも色濃く残っています。
彼らが作り出した絹製品をもって、ユーラシア大陸に行き、広く交易したのが、当時の国際語であるアラム語を話していたサカ族です。サカ族は仁徳の時代に蘇我の姓を貰い、履中時代に、蘇我満智が大臣になっています。
日本列島は当時、ようやく、行政に漢字が使われだした段階で、まだ通貨はありません。交易形態は物々交換ですが、日本側が最も求めたものは、いろいろな職能や知識をもつ人材だったと考えられます。
<蘇我氏のピラミッド>
お盆の最中の14日、奈良県明日香村にある都塚古墳が、階段があってピラミッド型だ と発表され、大騒ぎです。http://mainichi.jp/select/news/20140814k0000m040045000c.html
この古墳は蘇我稲目の墓ではないか、とされるのですが、それでも、なんで、ピラミッド型なのか?
実は、稲目の息子である馬子の墓も、ピラミッド型だったと思われるのです。現在は表面の盛り土が除かれて、内部の玄室部分の石組みのみの姿になっていて、石舞台と呼ばれますが、明らかに、正方形の敷地を構えているのです。
私は、蘇我氏は、5~6世紀の、仏教・キリスト教の宗教変革期に、見事に、その真髄を、日本列島に持ち込んだ一族と考えています。
5世紀は、405年に、カトリックの聖典であるラテン語聖書「ウルガタ」がヒエロニムスによって完成します。同年、仏教では、長安に入った鳩摩羅什が法華経などの翻訳(漢文訳)を始めます。
431年には、エフェソスで、神イエスキリストを生んだマリアは人間だとするネストリウスの主張が否定され、彼の教えを信奉する人間は、多くがササン朝ペルシャに流れ込みます。当時のペルシャは、ユーラシアでの交易の基軸通貨を発行していたのですが、そのときの王ペーローズは、ペルシャ領内でのキリスト教では、このネストリウスの教えを優先すると決め、その次男のジャーマースプは、首都のクテシフォンに、498年に、総主教座を構えさせます。
一方、カトリックの側は、コンタンチノープル(ビザンチン)、アンティオキア(シリア)、エルサレム、アレキサンドリア(エジプト)、そして、ローマに、それぞれ総司教がいて権勢を競いますが、このとき、ローマのゲラシウス一世が、「自分こそが神であるイエスキリストの唯一の代理人」と言ってから、ここが、バチカンの総本山になります。 カトリック、とくに、このローマのバチカンは、自分の教え以外を全て異端としてを認めず、以後、多くの弾圧をするのですが、
ペルシャで保護されたネストリウス派は、イラン東部のシャカスターンに色濃く残っていたミトラ教とも融合しながら、その教えは、鳩摩羅什が生まれた西域のクチャや敦煌を経由して、漢文仏教の中にも取り込まれていきます。
カトリックとネストリウス派(景教)は、ともにイエス・キリストを「三位一体」の存在としますが、聖母マリアの位置づけが完全に異なり、 それは、聖職者の妻帯問題になります。カトリックは、聖職者の妻帯を認めませんが、ネストリウスは、当然と考えるのです。
現在の日本の仏教では、僧侶はほとんど妻帯していますが、これはまさしく、ネストリウスの教えを受けたものです。 これは、正確に言えば、イノチの流れを自ら実践しない聖書者は不自然で、仏教の側が、ネストリウスの教えを吸収しない限り、縄文からの霊性を湛える日本列島では、それを受容しなかったのです。
ペルシャで話されていた言葉はアラム語でした。蘇我氏はそれを理解しました。イエスの時代にも話されていた言葉です。蘇我氏がイエス伝承を知ったいたのは当然で、イエスが青年期、アレキサンドリア図書館に通って、アレキサンダーの軌跡を確かめたことも話されていたでしょう。
そして、エジプトにある、ギゼのピラミッド。これが、実は、人類に多くの情報をもたらすシリウスからの受信装置であることも知っていたのではないしょうか?
蘇我稲目の父は蘇我高麗です。私は、この人物こそが、倭王オオド=継体になる人物を探し当てた人間で、それ以後、こうした古代エジプトから続く人類の秘教「カバラ」に通じた知識を持った人間が6世紀には日本列島にどんどん入り、彼らの智識が、蘇我稲目の時代(540~570)には、飛鳥で共有されていたと考えます。
<地球を、一つにしよう>
今、人類6000年の文明が整理のときに、蘇我氏が1400年前に、日本列島でやろとしていたことが復活する。
蘇我稲目の息子である馬子が期待した人物が、現在のキルギス、西突厥スイアーブ生まれのタルドウ(ウマヤド)です。この人物は隋と対等になる国家を日本列島で一旦は、実現し、その隋を滅亡にまで追いやります。
しかし、621年に、唐が李世民を中心に大陸を完全制圧すると、当時の倭国の伝統勢力が唐の圧力に負けて冊封される道を選ぶ意見が強まり、それに嫌気して、日本列島を去ってしまった。
ウマヤドは、後に聖徳太子とされ、「以和為貴」は、日本列島の民を一つにする思想となりました。
これを、地球全体にひろめよ、ということなのでしょう。
24日、京都では、”地蔵盆”ですが、この日に、日本の本質と自己実現を研究する 「翠の集い」 があります。
世界全体を見回すと、イノチの流れを自ら断って、概念だけで「神の唯一の代理人」になって多くの人間の心を縛ってきたのが、バチカンのローマ法王でした。
ヨーロッパでルネッサンスのあと宗教改革が始まったとき、プロテスタントに対抗して、バチカンの中から「神の国を広げる」という戦闘的ミッションをもって誕生した組織がイエズス会です。この組織が17世紀に、イエスの真実を伝えるテンプル教団(フリーメーソン)と内通したあとは、ここが世界の謀略の最深部になりました。 謀略には悪魔が取り付いていたのですが、そこが、ようやく、昨年に現法王のフランシスコが就任することて悪魔が払われたのです。
一方、日本列島で縄文時代からはぐくまれてきた叡智は、仏教が教える諦念の教え「世間虚仮」を知った上で、生きている現実にあるイノチの実相から離れず、その響きを自らの内にも外にも感得し、それを、イエスと習合した仏光として受容しました。イエスは、神は自分のココロにいると。それを、ブッダの光だとしたのです。
蘇我氏は、それが、この日本列島に広がることを求めていたのではないか。 しかし、皆がそれに気づけば、国家の権威は作れない。 その意味を判っていたのが、鎌足。 そして、入鹿暗殺。
642年の冬至、蘇我蝦夷(稲目の孫、馬子の息子)が甘檮の丘で、「八佾(やつら)の舞」を舞っています。
今回の発見は、日本をこの時点にもどせ、ということなのでしょう。 もちろん、そこにはマネーはなかった。